WorldCup98

サッカー・ワールドカップ感染ツアー
1998 フランス大会


Ⅰ プロ野球に「中田」はいらない

 「長島」はバカでもよかった。打ったら何も考えずルールの通り一塁へ走ればいい。次の行動はルールで決まっている。だからナイター中継では安心してビールを飲める。

 プロ野球に「中田」は不要だ。自分がどう走り、どのポジションで、どこへパスを通すか、なんて考える奴は野球では使えない。

 「長島」を愛した世代がいる。彼らが過した高度経済成長社会は野球場だった。ただルールに従って走ればいい。判断力は邪魔だ。

 Jリーグ開幕の頃、日本社会は野球場からサッカー場へと変わり始めた。ワールドカップ予選は日本の経済崩壊のまっ最中。気がつけば日本社会はサッカー場となっていた。

 決め事なんてない。判断力の無い奴はいらない。フリー・フェアー・グローバル。約束のはずの終身雇用や年功賃金も消えた。

 「野茂」にはなれないオジサン世代は「カズ」追放に震えた。これがサッカーなのだ。

『これじゃビールもおちおち飲めねえや』

Ⅱ 「日の丸」がお好きなのは右翼とサポーター

 「日の丸」を振り回すのが似合うのは右翼とサッカーのサポーターだ。さて両者は仲間ではなさそうだが・・・・・・。

 黒い街宣車を連ねた集団が、大音量でがなりながら赤信号の交差点に突っ込んでいく。幾千の青い集団が成田空港を埋め尽くし、チケットを確保できぬままフランスへ飛ぶ。

 「近代」とは社会的な縛りから個人が自由になる過程だった。自由とはすべてを自分が決すること。それはつらいことだ。だから自由からの逃避が始まる。女子高生はみずから進んで同じ眉で同じソックスになる。

 集団に溶け込み、熱狂に同化するのは心地よい。だがその奥には「ハイル・ヒットラー!」と叫びたくなる心が隠されている。右翼の日の丸は「日本国家」の象徴であり、サポーターの日の丸は「日本人」の象徴であろう。似て非なるものだ。

 しかし、日の丸を振る心の奥底に、同じ「心」を隠してはいないだろうか。

Ⅲ サポーターの「お祭り」、選手の「本気」

 「勝て」なんてだれも言わなくなった。アルゼンチン相手なら「せめて引き分けを!」。
 対韓国戦や対イラン戦では「なにがなんでも」とみんなが言っていたのに。

 サポーターの目標はワールドカップ出場だった。目標はクリアした。だからあとはお祭り。フランスはそのお祭り会場なのだ。

 選手は違う。祭りではない。虎視耽々とワールドカップ優勝を狙う。サッカーは何が起こるかわからない。だってあのブラジルに日本は勝ったじゃないか。彼らはやってくれる。だから「せめて引き分けを」なんて言わずに、プレッシャーをかけてやろう。

 独裁者ムッソリーニは1938年ワールドカップのイタリア選手に電報を送った。
 「勝て。さもなくば死あるのみ。」

 イタリア選手は無事優勝し、死なずに済んだ。
 我々もフランスに電報しよう。

 「勝て。さもなくば帰りはエコノミークラスだ。」




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